ノヴォチェルカッスク (Novocherkassk)
州都ロストフ・ナ・ドヌの30km北東で、トゥズロフ川の右岸、アクサイ川が合流するところにあり、三方を川で囲まれている. モスクワとノヴォロシースクを結ぶ高速道路M4、およびモスクワ=ロストフ・ナ・ドヌ=ソチを結ぶ鉄道も通る. 人口は170,822人(2002年国勢調査、1989年国勢調査では187,973人).
ノヴォチェルカッスクは1805年、ナポレオン戦争でドン・コサックを率いて戦ったロシア帝国の将軍でアタマン(首領)のマトヴェイ・プラートフによって、ドン軍管州の行政中心地として建設された. 当時の中心地だったチェルカッスク(現在のスタロチェルカッスカヤの村)はドン川の洪水に何度も苦しめられたため、住民は町を放棄せざるを得ず移転先を求めていた.
ノヴォチェルカッスクは、ロシア帝国内で大幅な自治を認められたドン・コサックの首都かつ最大の街として栄え、ドン・コサックのアタマンの宮殿、政府、裁判所などが所在した. 1882年には37,091人の住民がおり、11の聖堂、高校と女子高、劇場、孤児院、病院などが存在した. ノヴォチェルカッスクには大きな市が立ち、穀物・ワイン・材木などの交易の中心地でもあった. またレンガ、小麦粉、ワイン醸造などの産業も19世紀末までには立ち上がった. ノヴォチェルカッスクには正教会の大主教区があり1904年には大聖堂が建てられた. またマトヴェイ・プラトフやイェルマーク・チモフェーヴィチの銅像なども建てられた.
ロシア革命後のロシア内戦では、ノヴォチェルカッスクははじめ臨時政府からドン軍管州を独立させたアタマン・アレクセイ・カレージンの指揮下にあり、ウクライナ人民共和国との統合を志向したドン・コサックの強固な拠点であった. その後、ドン軍にかわってラーヴル・コルニーロフやミハイル・アレクセーエフがロシア系の義勇軍を編成し、ノヴォチェルカッスクをその根拠地とした. 赤軍がノヴォチェルカッスクから白軍を追放したのは1920年1月7日のことになる.
第二次世界大戦では1942年7月24日にドイツ国防軍がノヴォチェルカッスクを陥落させ、1943年2月13日まで占領していた.
1962年6月には食糧不足や労働条件の悪さに端を発した市民の暴動が起こった. 機関車工場でのストライキに始まり、労働者らがフルシチョフ書記長の肖像などを焼いて賃料や配給の増加を求め、翌日には工場から市街地へと蜂起が拡大し、市党委員会などへ市民が乱入する騒ぎになった. これはソビエト連邦下で起こった最大級の労働者蜂起であった. しかし、ソ連軍によりデモ隊に対する射撃が行われるなど乱暴に鎮圧され多数の死者を出した().
2005年には町の創立から200周年を記念して、内戦時の赤コサック軍と白コサック軍の和解に捧げられた記念碑がたてられ、除幕式にはロマノフ家からも出席者があった.